【1】各地の食文化と触れ合っていた幼少時代
Plan・Do・See(PDS) 菊池さんが経営するプラネット・テーブルは、農畜水産物の新しい流通プラットフォーム「SEND」を展開していますが、事業の詳細をお伺いする前に、菊池さんの人となりについてお聞かせください。菊池さんは法学部を出られて、そのあと外資系の金融機関等に勤められていたということですが、幼少のころなどにいまの仕事につながるような原体験があったのでしょうか?
菊池 実は0歳のころから畑に連れて行かれていたそうです。母親の実家は山形にある最上川の最上流の山岳信仰とかが残っていそうな真室川町というところ。小さい頃は一人でいることも多くて、そんなときはほとんど原っぱで遊んだり、植物を育てたりしていました。
PDS もちろんその頃はまだ、農業関係に携わろうと思っていた訳ではなかったですよね。
菊池 それはぜんぜんなかったですね。でも振り返ってみると、幼稚園の卒業アルバムに漁師さんになりたいって書いていたんです。
PDS それはなぜ?
菊池 自宅に大人用の動物図鑑や植物図鑑が置いてあって、それを書き写したりしていて。そのなかに魚の図鑑もあって、漁師になればこの図鑑にいる魚と全部会えると思ったんです。
PDS ご両親は研究職?
菊池 父親はパイロットで母親は元キャビンアテンダント。
PDS まったく関係ないんですね!
菊池 ただ職業柄、各地域の名産品はいつも家にあったり、田舎から頻繁にじゅん菜とか送られてきたりするので、食体験は豊かだったかもしれません。地方には東京にないものがあるということがインストールされていたし、逆に、地方に行かないと手に入らない食材があるというのは、小さいころから知っていましたね。
PDS そこから大人になるにつれて食とどう関わっていくのでしょう?
菊池 最近、自分の「食べ物バイオグラフィ」を書いてみたんです。
PDS どういったものですか?
菊池 これです。
菊池 畑デビューしたのが0歳、築地に行ったのが2歳、田植えは3歳というように。18歳のときには朝、築地で働いて仲卸の手伝いをしたり、22歳では調理師免許を取ったりしていたことを考えると、大学生までずっと何らか食にまつわることをやっていましたね。
PDS そこまで食と密接に関わってきたのに、大学は法学部に行って、就職は外資系の金融機関とはどういうことでしょう?(笑)
金融から農業の世界へ
菊池 まさにライフワークという言葉通りで、食はあくまでもライフ=生活の一部でしかなかった。で、ワークの面は、ビジネスがどう回っているのかとか、お金にまつわることやマーケティングなど社会の仕組みについて学びたくて外に出ていった感じですね。
PDS そこで外資系の金融機関に就職したと。
菊池 金融とか、経営戦略、ファイナンス、M&Aなどいまのビジネスに繋がるようなことをいろいろと学びました。9時〜5時で働き詰めの日々。あ、これは朝の9時から朝の5時までです(笑)。
PDS なかなかのハードワーカーだったんですね。
菊池 休みの日といえば料理するか食事しにくだけの状態でした。そのときに頭のなかはこんな感じです。
PDS なるほど。このときもまだ食と食にまつわる社会課題を結びつけていなかったわけですね。
菊池 そうですね。ただ、「食べ物を残したらダメ」とか「熟したほうが美味しい」とかある程度、食育を受けていて。いまは魚を熟成させるという方法が知られるようになってきましたが、当時はまだ新鮮であればあるほど美味しいと言われていた時代。そうした知識は教えられていて、キッチンペーパーでくるんで冷蔵庫で寝かせておけば、旨味が増すということは知っていたので当たり前にやっていましたね。そうしていまの脳内マップはこうなっています。
PDS いろいろなジャンルが混ざっていますね。金融機関からのビジネスの立ち上げはさまざまな可能性があると思いますが、農業の世界に来たのはなぜでしょうか。
菊池 20代後半に祖母から「農家を継いでくれ」って言われたことがきかっけです。
PDS 孫の菊池さんに話がきたんですか?
菊池 母親は継ぎませんし、小さいころから土いじりをしていた僕ならきっと関心を持つだろうと思っての打診だったと思います。
PDS 金融機関に勤められて、おそらく稼ぎも相当よかったでしょうし、その職を捨ててまで、リスクのある農業の世界に飛び出すわけじゃないですか。もともと自然と触れ合ってきたとはいえ、決定的な理由がないとなかなか難しいと思います。
菊池 もともと20代は勉強する期間で、30歳までには独立すると決めていたんです。ビジネスパーソンとしてきちっと評価を受けるとしたら、自分で決めて自分でやるのが一番いいだろうと。祖父もそういう人だったし、父親ももともと義理で入ったテレビ局のディレクターからパイロットに転身したこともあって、自分のやりたいことをやろうという教育でしたね。
PDS そこでご祖母の畑を手伝うようになったわけですね。
菊池 そのときはまだ、仕事をしながら週末に片道4〜5時間かけて田舎にいって畑仕事をやっていた感じです。ただ、面白いなと思いつつも、このままでは自分のことはおろか日本の農業全体が立ち行かなくなるだろうなと感じたんです。
>>>【2】誰に食べられているかも知らない農家の人たち につづく