【1】不登校だった「アメリカ野郎」

Plan・Do・See(PDS インタビューの前に、竹内さんが校長を努めていらっしゃる『YES International School』の授業を見学させていただきました。

竹内 はい。いかがでした?

PDS いやあ。うらやましいな、と。

竹内 (笑)。

横浜校の授業の様子。竹内さんももちろん、算数などを担当する先生をつとめています
横浜校の授業の様子。竹内さんももちろん、算数などを担当する先生をつとめています

PDS のびのび! 自由! って感じでした。子供たちが竹内さんを含めた先生方にワイワイとディスカッションする。内容もプログラミングの相談や円周率について聞く子などさまざま。そのうえ皆がネイティブのような発音の英語で、ですからね。

竹内 授業は半分を日本語で、半分を英語で実施しているんです。普段触れる言語の半分が英語だと、小学生くらいならすぐに使えるようになりますね。また授業は「融合授業」といって、「英語×プログラミング」「算数×英語」と混ぜ合わせたスタイルで実施しています。だから自然とワイワイといろんな話題がときに広がり、ときに深まるんです。

PDS 学年も融合しているんですよね?

竹内 はい。低学年も高学年も一緒の授業が多いですね。生徒同士が教わったり、教え合ったり自然とできる。それも学びになるし、社会に出たら、同じ年齢で揃えられた集団のほうが珍しい。子供の頃から多様性の中でもまれる経験は、そのままボーダレスな社会で生きる力を育む。そう考えているんですよ。

PDS 竹内さんといえば、サイエンス・ライターとして著作も多く、テレビでもよくお見かけします。

竹内 ありがとうございます。

PDS でも、今日は一昨年この学校を創られた「創設者」「校長」としてのお話を伺いたいなと。

竹内 はい。

PDS というのも、実は私たちも観光やサービスという分野で「学校運営」などをふくめた教育関連の事業に対するご相談を受けることが増えたんです。なので、実際に自ら学校を創られた竹内さんにぜひそのあたりの狙いとご苦労、そしてビジョンを伺いたい! と思って。

竹内 わかりました。よろしくお願いします。

PDS まず幼少期から伺っていいですか? 竹内校長が生まれた根っこには、これまでの生き方や家庭環境が大きく影響しているに違いないと。

竹内 父の存在が影響していますね。父は東芝というところに勤めていました。

PDS ちょうど「VHS対ベータ」のビデオ戦争の頃、ベータ陣営の東芝でビデオ営業部長をされていたんですよね。

竹内 よくご存知で。結局、ベータが負けたので、責任をとったかたちです。それまで毎日、午前様で働いて会社のために尽くしていたのに、負けたら腹を切らされる。「絶対サラリーマンにはなるまい」と思っていましたね(笑)。

PDS それは小3でアメリカへ引っ越す前ですか?

竹内 帰ってきてから、ですね。そう。その父の転勤で、小学生時代に、アメリカと日本の生活を体験したことも大きかったです。

天才少年の成績が「1」になる。

PDS ニューヨークでしたっけ?

竹内 そうです。1970年頃でした。ニューヨークに日本人なんて1000人くらいしかいなくて日本人学校もなかった。だから現地校に投げ込まれました。衝撃でしたよ。相当、“脳”にきますからね。

PDS 脳に!?

 

竹内 突然、周囲の誰とも話が通じなくなるわけですから。また言語だけじゃなくカルチャーの違いこそ衝撃でした。日本の小学校とは「やっていいこと」「やってはいけないこと」が全く違った。日本では小学生といえば当時は、みな半ズボンだったのに、アメリカは長ズボン。「授業は静かに座って受ける」だったのが、アメリカは授業中に好き勝手に話して、ディスカッションが始まったりする。

PDS 今の『YES International School』に近いですね。

竹内 ええ。いわゆる「探究型授業」「アクティブ・ラーニング」といわれるスタイル。それによって、日本語しか話せなかった僕はのびのびと学校生活を過ごすことができ、順応することができた。

PDS 英語も使えるようになり、長ズボンにもなって(笑)。

竹内 そうです。で、このときに気づいたんですよね。「世の中のルールや決まりごとというのは、必ずしも合理的な理由があって決まっているわけじゃないんだ」と。それからはどんなルールや決まりごとに対しても「それって合理的なもの? 単に前からやっているから、という理由じゃない?」と考えるようになった。もちろん、今もそれは続いていますね。

PDS 5年生になって帰国してからが、また大変だったそうですね?

竹内 ええ。実はこちらのショックのほうがキツかった。アメリカのスタイルに完全に慣れてから、日本の小学校へ再入学ですからね。まず長ズボン、しかも当時流行っていたベルボトムで登校したら、半ズボンの中で浮くわけです。そして日本の授業から離れていた結果、漢字がまったく書けない状態になっていた。アクティブ・ラーニングとは違う詰め込み型のスタイルで、漢字をとにかく練習するのは辛かったですね。そして、ついたあだ名が「アメリカ野郎」ですよ。

PDS 直球ですね(笑)。図工の評価が日本とアメリカで「真逆だった」というのが面白い!

竹内 ニューヨークの学校はクラスから一人選抜されて、外部からやってくる画家の先生のクラスに入るんですね。僕はその選抜者になり「薫は天才だ! 来年から奨学金もらってアーティストを目指せ!」とまで言われるほどでした。親は不安がっていましたが、僕はとてもうれしかった。その先生はとにかく自由に絵を描かせてくれて、またしっかりと評価し、ほめてくれるからアートが大好きになったんです。ところが、日本に帰って教わった図画工作の先生はまったく違いました。「絵の具はこう滲ませなさい」「工作の橋はこう作りなさい」「線はこうひきなさい」。

PDS まぁ! 天才少年に対して!(笑)

竹内  そのうえ通知表で最低評価の「1」をくれた。同じ、竹内薫という同じ人間が描く絵なのに、評価が全く違うわけですよ。子供の才能を伸ばそうとする先生がいると同時に、才能を縛り付けて潰そうとする先生もいる。これは一番やってはいけないこと。子供にはそれぞれ才能があり、勝手にそれをいろんな方向に伸ばしていくものなんですよ。

PDS それを先生のルールだけにおさえこまないでと。

竹内 そのとおりです。子供に対して「あれはダメ」「これはダメ」というのは、本当に、NGワードですよ。『YES International School』の教え方も、その考えは真ん中にあるもののひとつですね。結局、僕は登校拒否児となってしまった。いまでいう「不登校」ですね。