達成感のある水泳が自分に合った

Plan・Do・See(PDS) オリンピアン(オリンピック出場選手)にお会いできる貴重な機会なので、岩崎さんの過去のインタビューを何本か読んできました。どこかの記事で「金メダルよりも幸せなこと、嬉しいことが最近すごく増えている」と発言されているのを読んで、なんだか嬉しくなってしまいました。

岩崎 いえいえ(笑)

PDS 今日はそういう話を伺いたいんですが、そのためにもまず、岩崎さんがこれまでの人生で担っていらした役割を聞いていくのがいいのかなと思って。まずは、どんなご家庭で育ったのかを伺えますか?

岩崎 本当にごく一般的な家庭でしたよ。唯一、変わったところといえば、私が2、3歳のときに父が白血病で生死をさまよったことくらい。ときどき「三途の川を見てきた」なんて冗談で言っていました(笑)

PDS あぁ、渡らないで本当に良かった。

岩崎 そういうことがあったから、父は子どもたちに「好きなことをやらせてあげよう」という気持ちがすごくあったと思います。ただ、私は当時のことをほとんど覚えてないんですね。

PDS 2、3歳ではね。お姉さんは三つ年上でしたっけ?

岩崎 そうです。姉は母から「お父さん、病気で死んじゃうかもしれない」と言われていたみたいで。うちは三人姉妹なんですが、妹が生まれてすぐのことだったんですよ。

PDS お父さんはその時、おいくつですか。

岩崎 40歳くらいだから、今の私と同じ年代です。母は母で「もし、お父さんが亡くなったら、三人の子どもをどうやって育てよう」と考えていたようです。だから、両親の人生観はちょっと違うのかもしれません。父は同じ時期、自分の弟も亡くしていて。

PDS きっと人生観が変わったと思います。

岩崎 やっぱり「人生、後悔のないように過ごそう」ということになったんじゃないかなぁ。自分自身もそうしようと考えて、子どもたちにもそうあってほしいと。しつけが厳しいと思うこともありましたが、私たちが本当にやりたいことを真剣にサポートしてくれました。

PDS 習い事もたくさんやられていたとか?

岩崎 そうです。お姉ちゃんの習い事を全部一緒にやりたくて。でも、途中で「やめたい」と言い出しても、やめさせてくれないんですよ。「6年間は続けなさい」という約束がありました。ピアノは本当に苦手でした。

PDS うーむ、なんででしょう?

岩崎 練習していかないで行って、先生に怒られるから(笑)。それで嫌になってしまい、もう悪循環です。私の娘が今小学校2年生なんですが、彼女のほうがワーッと上手に弾ける。私は6年間やって音符をちょっと読めるぐらいなので、実にもったいなかったです。

PDS 本当に(笑)。あと、どんな習い事を?

岩崎 英会話とお習字、それに水泳です。習字は好きだったんですよ。集中してきれいな字を書いて、先生から丸をもらい、段が上がっていく。同じように水泳も目に見えて「自分ができた」というのが分かりました。タイムがあるから、速くなっているのが実感できるじゃないですか。それが私には合っていましたね。

しっかりした自己肯定感を育めた

岩崎 水泳では小学校4年生のときに初めて全国大会に出られました。東京で春と夏に大会があるんです。

PDS 静岡以外に出られるのは、その時がほとんど初めて?

岩崎 そうなんです。東京は地元とこんなところが違うなとか、テレビで見ていた世界に来たなって。関西弁とか九州の言葉を話す小学生たちとも会って、静岡のイントネーションが全国共通のものではないと気づいたのは早かったと思います。

PDS バルセロナオリンピックの前に、海外へも行かれていたんですね。

岩崎 はい。中学校1年生の時にアメリカのサンタクララへ遠征しました。現地で「水道水は飲めない」と言われて、「あぁ、日本はいい国なんだ」って。そういうことを肌で感じられたのは、水泳をやっていたおかげですね。

PDS こうして小さいころのお話を伺うと、しっかり「自己肯定感」が持てる育てられ方をされたという印象を受けるんですね。三人姉妹の真ん中だと、たとえばですが、お姉ちゃんに追いつけない「焦り」のような感情はなかったですか?

岩崎 いえ、3つ離れていますからね。それに、同じ親に育てられても性格はバラバラです。姉は「お姉ちゃんでしょ」という風に育てられたから、本当に長女っぽい。「妹たち2人は自由にやっていて、うらやまい」とは思ったかもしれません。反対に、私たちは姉のすごいところも分かっています。

PDS なるほど。

1992年のバルセロナオリンピックの競泳女子200m平泳ぎ決勝。当時のオリンピック記録を塗り替えるタイムで岩崎恭子さんは金メダルを獲得した。 写真:©PHOTO KISHIMOTO/amanaimages
1992年のバルセロナオリンピックの競泳女子200m平泳ぎ決勝。当時のオリンピック記録を塗り替えるタイムで岩崎恭子さんは金メダルを獲得した。 写真:©PHOTO KISHIMOTO/amanaimages

岩崎 そんな姉が高校生の時に、妹の私が金メダルを獲ったから、世間から注目されてしまって大変だったと思います。

PDS 郵便ハガキが「静岡県 岩崎恭子様」の宛先だけで家に届いたとか。

岩崎 届きましたね、当時は(笑)。姉と妹には迷惑をかけましたが、もう獲っちゃったものは仕方ないから。

PDS うんうん、しょうがない!

岩崎 今では姉も妹も、私のためにメディアの取材に応じてくれます。きっと私のことが嫌いだったら出てくれないでしょうから、良かったです。二人には感謝しています。

今にして思う、母のすごさ

PDS バルセロナでの活躍は読者のみなさんもご存知だと思うので、その次のアトランタ大会(1996年)までの話を今日はすごく伺いたいと思って来ました。頂点である金メダルを獲ってしまった後、ご自身をドライブするのは半端じゃない力が必要だったと思います。

岩崎 ええ。それまでお姉ちゃんを追いかけたり、記録を目標にしたり、ただただ目の前のことを一生懸命にやっていて、それらが積み重なって金メダルになりました。でも、バルセロナオリンピックが終わってからは、世間に注目されすぎてしまって……。

PDS 全国を巻き込んで、すごいフィーバーでしたもんね。

レース直後のインタビューに岩崎恭子さんが答えた「今まで生きてきた中で、一番幸せです」というフレーズが流行語になるなど、金メダルの快挙は日本中を駆け巡った。 写真:©PHOTO KISHIMOTO/amanaimages
レース直後のインタビューに岩崎恭子さんが答えた「今まで生きてきた中で、一番幸せです」というフレーズが流行語になるなど、金メダルの快挙は日本中を駆け巡った。 写真:©PHOTO KISHIMOTO/amanaimages

岩崎 フッと目の前の目標がなくなってしまった後、スイッチが切れちゃったんです。2年ぐらいをそうやって過ごしていて、同じような練習をやっても結果が出なかった時期が続きました。

PDS それは辛かったでしょう。

岩崎 しかも、当時の日本の水泳競技者というのは、今の(池江)璃花子ちゃんなどの時代と違って、海外にどんどん遠征に行くようなこともなかったので、ずっと日本にいたんです。ずっと人から見られているのが、すごいストレスでした。私、沼津で外に出る時、いつも下を向いていたんですよ。

PDS きっと憎まれ口を叩くような悪ガキもいたんでしょう?

岩崎 そう。「あっ、岩崎恭子だ!」「別に全然かわいくないよなー」なんて言われるんですよ、わざと聞こえる声で。

PDS デリカシーの問題というより、たぶん嫉妬でしょうね。

岩崎 高校1年生の時には一番上の代表になれなかったんですが、一つ下の代表になって。その時、海外へ初めて行ったサンタクララに遠征したんです。同じ場所に行くと、前回の気持ちが蘇ってくるじゃないですか。

PDS フラッシュバック?

岩崎 そう言うのかな。全然怖いものなしだった、中学1年生の時の気持ちを思い出しました。日本を1ヶ月以上離れて人の視線を感じないと、気持ちが楽なんですよ。すると、自分の心に余裕が芽生えてきました。

PDS そうかぁ。

岩崎 気持ちに余裕が出ると、私に掛けられるいろんな言葉を素直に聞けるようになりました。それで、長いトンネルを抜けられたんです。

PDS 誰からの言葉が耳に残っていますか。

岩崎 コーチも「どうにかしなきゃ」と考えてくれていたと思いますが、一番は両親からの応援です。私のやる気のないところから見ていて、「どうやったら恭子はもう1回頑張ってくれるかな」とサポートしてくれました。

PDS どんなことをしてくれたんでしょう?

岩崎 いたって普通どおりです。ただ、水泳の試合って本当に朝が早いですし、毎日の送り迎えから食事の支度もあって。私は毎日のご飯が出てくるのが当たり前だと思っていたけど、いざ自分が親になった今、とてもお母さんと同じようにはできないと思いました(笑)

PDS 多くの人がそう言いますよね。

岩崎 うちの母は特に完璧で。自己流だったと思うんですけど、勉強も見てくれました。サポートしてくれているっていうのは分かっていましたが、当時はそこまで母のすごさに気づけなかったんです。

競技者同士では話せないこともある

PDS そういう期間を経たからこそ、アトランタではメダルには届かなったものの、出場できたことに納得感や満足感というものがあったのでは?

岩崎 競技者としては勝たないといけないのは分かっていました。だからといってバルセロナみたいなことが起こらないのは、自分の調子などからも分かるんですね。アトランタはもう泳ぐのが怖かったです。

PDS スタート台に立った時でも、まだ怖いという感じ?

岩崎 予選は怖いというか、覚えていないんです。「頭が真っ白って、こういうことだな」と泳ぎ終わって思ったくらいですから。でも、なんとか予選は通過できました。当時の競技ルールでは次がもう決勝だったので「もう1回泳げるんだから、ここはしっかり今出せる力を出さなきゃ」と思ったのは覚えています。

PDS そんな状況だったんですね。

岩崎 だからアトランタへの思いは複雑です。それこそ自己肯定感があったからかもしれませんが、自分を「許せた」っていうか。本当はいけないんですよ? 競技者として、本当はいけないことなんですが(苦笑)、自分で「よくここまで頑張れたな」と思っちゃいました。

PDS 同じく競技をやっていらっしゃる仲間、あるいは別の競技のお友達などと話す時、自分をそんな風に許してあげた方と、おそらく未だに許せていない方がいらっしゃると思うんですよね。両者で話すと、どういう会話になるんだろうって。

岩崎 そこは、競技者同士でもあまり話さない部分です。

PDS 話さない?

岩崎 ええ。たとえば、取材などで「対談してください」と言われたとき、初めて「その時、そう思っていたの?」と相手に驚くといったことはありますね。今でこそ「こうだったね」と同期の子と話すことはありますが、当時は話さないですから。そういう話ができるっていうのは、自分を許しているっていう状態なので。

PDS あぁ、そうか。お互いにね。

岩崎 そう。だから、そうではない「まだ自分を許せていない人」には聞けないんですよ。なんとなく、雰囲気でも分かりますから。

PDS そういうものなんですか。

岩崎 逆に、私なんて「なんて楽観的な人なんだろう」と姉妹や周りからきっと思われているはずですよ(笑)

PDS それは、無理に楽観的であろうとしているわけじゃないんですよね。

岩崎 そうではないです。そういう性格っていうか(笑)。もちろん、現役を引退するまでに悩んだこともあるんですけど、あまりそういう風に見えなかったのはいいことだったなって、今では思っています。