ジャーナリストを目指した大学時代
Plan・Do・See(以下PDS) いつもは京都を拠点に活動されている矢島さんですから、今日東京でお会いできるのを楽しみにしていました。「和える」という社名が、ずっと素敵だなと思っていて。
矢島 うれしいです!
PDS 何かと何かを組み合わせるという言葉がいろいろあるなかで、どうして「和える」にしたんですか?
矢島 「混ぜる」と「和える」という言葉では、やはり違うのですよね。原点や本質を磨き出して、それらをどう組み合わせるとより魅力的になるのだろう。それを考えるのが「和える」ということだと思います。
PDS なるほど〜。
矢島 「混ぜる」だと、どうしても原形がなくなってしまうような感覚が私にはありました。
PDS 英語で社名の意味を伝えるときなど、ご苦労されるのでは?
矢島 ええ、いつも本当に大変です(笑)。「和える」にピッタリの英語が存在しないのです。ミックスではないし、かといってブレンドやハーモニーのような感じだけれども、やはり少し異なるのです。そのまま「和える」が英語としても使われるようになる日がくるといいなと思っています。
PDS それは素晴らしい! ぜひ実現させてください。
矢島 ええ。和えるという言葉の“間(あわい)”を、世界中の人にも感じとっていただければと思っています。
PDS まずは、矢島さんが大学4年生のときに会社を立ち上げるまでのお話を、あらためてお伺いしていいですか?
矢島 私はジャーナリストを目指して大学に進学しました。ジャーナリストであるという姿勢は変わらずにありながら、自分自身がどんなジャーナリズムに挑戦をしていきたいのかを在学時に考えました。やはり「自分の人生をかけて伝えていきたいこと」を伝えたいですから。
PDS これから就職するような読者の心に響く言葉です!具体的にどんなことをされたんでしょう。
矢島 いろいろ取り組みましたが、一番大事だったのは、自分自身を振り返ることでしたね。私は東京で生まれて、千葉のベッドタウンで育ち、自分の「田舎」というものがありませんでした。だからすごく田舎というか、日本の原風景のようなものへの憧れがありました。
PDS あぁ、わかります。
矢島 私たちは都市での生活をおくっていると、人間が自然の一部であるということを忘れがちだと思うのです。
日本の文化や伝統にワクワクする自分
矢島 ある日、70歳の方と一緒に山に入った経験から感じたのは、山って「自然の食料庫」のような場所だということ。「一日中、山で遊べる」という意味が初めてわかりました。朝ご飯をおうちで食べたら、あとは山の中でおやつも探せるし、遊び続けられる。
PDS うらやましい生活だなぁ。
矢島 本当に生きていく技術が高い人々というのは、自然との向き合い方を経験則で知っていらっしゃる。日本の伝統産業の職人さんたちは、ものづくりをする際に多くの自然のめぐみをいただいて、ものづくりをされています。先人が紡いできた智慧(ちえ)というものこそが、
PDS あっ、矢島さんご自身の「伝えたいこと」が見つかったんですね。
矢島 ええ。私たちの「和える」という会社は、こうした日本の伝統を次世代につなぎたいという想いから始まりました。和えるは自分自身が歩んできた人生のさまざまな経験の点が線になり、そのうち平面になって、たくさんの出逢いを経て立体的になったことで生まれてきた会社だと思っています。
PDS その以前から、日本の伝統への関心があったんですか?
矢島 今振り返ると、あったと思います。実際に、中学高校時代は日本らしい部活動に憧れて茶華道部に入りましたから。日本の伝統について考えたときに、パッと茶道をイメージしたのです。ただ、そのときは詳しい知識が当然なくて、海外の人々が「お抹茶は日本らしい」と感じる感覚に近かったです。
PDS その感覚、よくわかります。
矢島 入部して気づいたのは、お茶室は日本の伝統の品々に囲まれてできているということでした。お道具や装飾が「ただ使える」という機能面だけでなく、そこに「美しさ」「心地よさ」がある。
PDS そう。そうなんです!
矢島 のちにそのしつらえやお道具の原点をよくよく考えたら、自然の恵みをいただき職人さんたちが産み出したものでした。実はそうした自然から伝統産業や工芸品になっているわけですよね。
PDS 中学生ぐらいで茶道に触れると、どうしてもお点前(てまえ)のやり方のほうに目が行きがちですが、道具や文化に関心が向いたというのが矢島さんのユニークなところですよね。
矢島 きっと先生が良かったのだと思っています。「しつらえ」の楽しさを教えてくださった方でした。私もいつか大人になったら、先生のような「亭主」になって、「正客」と遊びに富んだ会話をしたいと思えたのです。
PDS 私はとても、その領域には達しませんでした……。
矢島 文化や伝統に触れたこと自体が、大切な経験だと思います。
茶道にはおもてなしをする亭主がいて、また、そのおもてなしに気がつく正客がいて初めて、そのお席というものが立体感と季節感とすべての思いやりに気づく場に変わりますよね。正客の大切さ、招く人の心意気。それらをお互いにわかって交換しあうという感覚。子どもながら「なんてカッコいいのだろう」と思いました。
PDS 茶道ではまず「最初にちゃんとお客様になれるようになりなさい」という指導をしますからね。
矢島 まさにそう。だからお点前が上手にできなくても、まずは良きお客様であることが大切です。けれども、やはりお点前をする側の気持ちもわからないと、良きお客様にはなれません。だからこそ、お稽古がやはり大切です。
PDS それって、矢島さんが日本の文化や伝統に対する意識を育んだ原体験ですね。
矢島 そうなのです。大学時代に自分自身の人生の琴線に触れているものを振り返ったときにも、私はなんだか「日本というもの」へ非常に興味を持っていて、先人の智慧というものに対してワクワクする、関心が強いとわかったのです。
PDS その「わかった瞬間」って、きっと気持ちいいんだろうなぁ〜。
矢島 だからこそ、あらためて日本というもの、そこから生まれる伝統を伝えるジャーナリストになりたいと思いました。
「もの」を通じて伝えられることがある
PDS ジャーナリストになるためには新聞社やテレビ局、出版社などに新卒で入社する道が真っ先に思い浮かぶのですが、それが矢島さんの場合、どうして起業という選択になったのでしょう?
矢島 近代史を大学時代に振り返り再確認したのですが、産業革命以降のあまりにも急速な経済発展で、文化が変化する速度が異常なほど早かったのです。
PDS 確かにそうですね。
矢島 あまりに速いその変化によって、長年にわたって育まれた智慧が失われようとしています。「受け継がれてきたものには魅力がない。新しいものが良い」といった判断ではなく、伝統や文化の価値がきちんと精査すらされずに置いてけぼりにされてしまったと感じています。
PDS うーん、なるほど。
矢島 この現状に気づいたとき、「私は、これまでつながれてきた文化や伝統は、経済合理性というところからはいちばん離れていそうに見えながら、実は「人間が豊かに生きていくためには、合理的に必要な部分もあるはずだ」という可能性も感じていました。
PDS ちゃんとビジネスの視点があったんですね。
矢島 ただ、一番の目的は「次の世代に対して、そうした日本の文化や伝統をつなげること」です。それができるのにギリギリ間に合うという時代に私は大人になりました。
PDS ギリギリという言葉を使われたところに、なんだか矢島さんの使命感を感じます。
矢島 そうなのです。伝統や文化を私がつないでいくためには、どうしたらいいのだろう。まずは幼少期に「知る機会」をジャーナリストとして提供しない限り、伝統がつながる循環自体が始まらないと思ったのです。
PDS ジャーナリストへの道を志していた矢島さんが、どうしてメディア産業でない会社を起業する道を選んだのか、ようやく腑(ふ)に落ちてきました。
矢島 ありがとうございます。産まれたときから日本の伝統に出逢える環境を生み出すことから始めなければ、日本を知らずに大人になっていく。「赤ちゃんや子どもたちに対して、ジャーナリストとしてどのように伝えよう」と考えました。伝えるためには、言語を超えた体感や感覚というのも求められるだろうし、暮らしのなかで自然と触れられて、使われていく必要もあるのだろうなと。
PDS そこまで学生時代に考えられた。
矢島 そこで「『もの』を通して伝えるジャーナリズムはどうだろう」という発想に行き着いたとき、それが実現できる環境の会社に就職しようと考え、探したのですが、見つかりませんでした。
PDS 理想の会社がないなら自分でつくってしまおう!という発想と行動力には脱帽してしまいます。
矢島 当時の私は社会人経験もなかったので、経営についての知識は乏しかったです。けれども学生ですし、もともと失うものはなかったので、それならば自分自身でそういう場を生み出していいこうと思えたのです。
PDS そうは言っても、なかなか大変じゃないですか。お金を用意することとか。
矢島 そうですね。ただ、こうした考えを持っている学生に向けて「ビジネスコンテストで自分のプランをプレゼンして、価値を認められれば最初の起業資金が得られる」という社会システムがすでに構築されていたので、ビジネスコンテストに挑戦し、その賞金から「和える」を生み出しました。
PDS 生まれたタイミングが良かった?
矢島 はい。学生が起業できる環境を社会がすでに整えてくださっていました。ですので、先輩方がこれまでに苦労をされて用意してくださった仕組みを活用させていただき、起業することができました。
”しなやかな起業家” が増えていく
PDS 矢島さんのおっしゃる言葉からは、本当に自然体で活動されている印象を受けます。
矢島 見方によっては大変な局面もあるかもしれませんが、おかげさまで無理を重ねず、自然体で活動できています。これからは、“戦う起業家”ではなく、”しなやかな起業家”が増えていくのではないかなと感じます。
PDS ”しなやか”というのは?
矢島 そうですね。たとえば歴史上、人は何かを得るためには戦ってきましたよね。社会に制度がないときには、その制度構築に向けて一度戦わなければなりません。さまざまな制度が整った社会が今あるのは、先人が戦ってくれたからです。
PDS ジャーナリスト志望だった矢島さんならではのものの見方ですね。
矢島 今、まだまだ女性が活躍しにくい部分も、ないとは言い切れない社会であるとは認識しつつも、社会制度としては性別を問わず平等に用意されていると感じています。ですから実は、年齢性別問わず平等にビジネスができる環境が整っていると自身が起業しているからこそより実感しています。
PDS とっても勇気づけられるお話です。
矢島 いざ制度はそろった。あとは、それを私たちが活かせるかどうか。失敗したり、できないと諦めたりするとき、人はどうしても環境のせいにする性質があります。
PDS あぁ、反省しちゃうなぁ(笑)
矢島 でも一番の問題というのは、自分の中で知らないうちに制限をかけている天井のような限界、自分自身の中に芽生えたバイアス(偏見)が大きいのではないかなと思いますね。
PDS ご自身が起業したのと同じ年齢の学生を見ていて、そう思うような瞬間はありますか?
矢島 大学などで講演させていただくと、よく質疑応答で「女性起業家だからこそ苦労したことは何ですか?」と聞かれます。苦労があるに決まっているという前提で考えているようで。
PDS 決めつけて(笑)
矢島 特にないですよ、とお話をさせていただくと、みなさんがハッとなるのが分かるのです。私より若い世代の子たちが、まだまだ昔の感覚のバイアスを持って生きていることに対し、すごく危機感を感じています。
PDS 確かにバイアスを持っていることに気づくきっかけがないと、それを意識するのは難しいと思います。
矢島 もう一度、冷静に今の社会の制度を学んで、用意されている仕組みを活用していくことによって「本当の平等」につなげなければいけないというのが、おそらく私たちの世代の役目だと思っています。